|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 一 : [いち] 1. (num) one ・ 雄 : [おす] 【名詞】 1. male (animal) ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
渡邊 一雄(渡辺 一雄、わたなべ かずお、1935年 - 2010年10月11日)は、日本の放送番組制作プロデューサー、音楽プロデューサー。毎日放送(MBS)プロデューサー・テレビ制作部長。ラジオ番組『MBSヤングタウン(ヤンタン)』初代プロデューサー。兵庫県出身。 == 来歴・人物 == 1959年に大阪学芸大学音楽科を卒業し、1960年にMBS入社。1967年よりヤンタンのプロデューサーを20年に渡り務め、パーソナリティからは「大ナベさん(オオナベさん)」の愛称で親しまれた(この愛称は、後に同姓の後輩社員渡辺高志がディレクターを担当する事になったため、後輩を「コナベさん」として区別した上でついたものである)〔参考:嘉門達夫の某某日記 4ページ (代官山プロダクション公式HPに掲載されていた嘉門達夫のウェブ日記) ※インターネットアーカイブ2000年9月30日付保存キャッシュより。第8段落の日記で、「オオナベさん」「コナベさん」についての由来が書かれている。〕。ヤンタンのほかにも、数々のラジオ・テレビ番組の制作に関わったほか、『サントリー1万人の第九』など音楽ライブイベントの制作・プロデュースにも関わった。 1987年よりテレビ制作部長を務め、その後は1995年よりラジオ局次長、スポーツ局長を経て役員待遇テレビ制作部長を歴任した。1997年6月に定年退職後は2002年6月までMBSの特別顧問を務め、その後は音楽プロデューサーとして活動していた。2005年には、ヤンタンについての回顧録『ヤンタンの時代』を発表した。 2010年10月11日に肺癌のため死去、26日にMBSより明らかにされた〔「ヤンタン」初代プロデューサー渡邊一雄さん、死去 ― スポニチ Sponichi Annex 大阪 〕。75歳没。 2010年12月6日、大阪・シアターBRAVA!にて「偲ぶ会」が開かれ、桂三枝(現・六代目桂文枝)や谷村新司などといった「ヤンタン」歴代パーソナリティらが集まり、故人を偲んだ〔渡邊一雄さん:ヤンタンの名プロデューサーを「偲ぶ会」チャゲアスも久々ツーショット - 毎日新聞デジタル、2010年12月7日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「渡邊一雄 (プロデューサー)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|